青春シンコペーションsfz


第3章 音楽祭の魔物(1)


次の瞬間。バシッ! という乾いた音がエントランスに響き渡った。そこにいた全員が唖然として彼女を見た。彩香が思い切り彼の頬を張ったのだ。
「ふざけないで!」
彩香はそう言うと落ち掛けたショルダーバッグの肩紐を掛け直し、脇目も振らず、扉の外に出て行った。
「うっひゃあ! すっげえ!」
何人かの記者達が慌ててシャッターを切る。
「響君、大丈夫?」
中の一人が俯いたきり黙っている彼に訊いた。
「お嬢様とはいえ、酷いよな」
「まったくだ。あーあ。ほっぺ、赤くなってるよ。いきなり叩くなんて……。記事にしてやるからね」
記者達が息巻く。

「やめてくださいよ」
響が顔を上げて言った。
「俺が調子に乗り過ぎただけですから……」
「でもさあ」
記者達が何か言おうとするのを遮って、響は明るく言う。
「頼んます! こんなん書かれたら、俺が一方的に馬鹿みたいだし……。ちょっとからかっただけなんですよ。まさか、本気に受け取って怒っちゃうなんてびっくりしたなあ。お嬢様ってのは案外真面目なんすね」
そう言って響はあっけらかんとして笑う。

「なあんだ。あれって冗談だったの?」
「当たり前じゃないすか。記者さん達がいっぱいいる前でプロポーズなんてする訳ないでしょ?」
響が笑ったので、記者達も笑い出した。
「それに、相手は有住財閥でしょ? 敵に回したら怖いですからね。ここは穏便にお願いしますよ。俺、まだ日本でも活動したいんで……」
それから、響は彼らを食事に誘い、笑いながらそこを出て行った。


一方、彩香は家に戻ってもまだ、響が言った言葉が頭から離れずにいた。
(いったいどういうつもりなのかしら? 公衆の面前であんな言葉を口にするなんて……)
上着もバッグもまだ部屋の隅の椅子に置いたまま、彼女は考えていた。
その時、ノックの音がして、井倉が声を掛けて来た。
「あ、彩香さん、着替えが済んだら、下でお茶をどうですかって美樹さんが……。美味しいケーキをいただいたので一緒にどうかって……」
井倉の声は少し曇って聞こえた。
「伺うわ」
ドアを開けて彼女が言った。
「あ、はい。それじゃあ、僕、先に行ってますので……」
そう言う彼に彩香は苛々と言った。
「あなたっていつも煮え切らない言い方をするのね。もっと自分に自信が持てないの?」
「はあ。でも、僕……」
「あなたがそうやって、いつもはっきりしないから……」

――だったら、今、この場で立候補しますよ。俺と結婚してください

頭の中に浮かんだ響の言葉を打ち消そうと彼女は沈黙した。井倉はどうしていいかわからずにぼうっとそこに立っていた。
「もう、いいわ。行きなさい」
彩香は顔を背け、井倉は訳がわからず、じっと彼女を見つめた。
「あ、そういえば、音楽祭も近かったわね。練習の方はどう?」
少し間を空けて彩香が訊いた。
「はい。一応、しているんですけど、なかなか難しくて……細かいところなんかがまだ……」
頼りない答えだった。彩香は軽く肩を落として続けた。

「そう……。とにかく頑張って成功させなさいよ。音楽祭には有住もスポンサーになっているんですからね。当日はお父様も出席なさると思うから……」
「え? 彩香さんのお父様がいらっしゃるんですか?」
それを聞いただけで井倉は緊張した。
「ついさっきメールが届いたのよ。だから、絶対に恥ずかしい演奏だけはしないでちょうだい」
「わかりました。何とか頑張ります。でも……」
「でも、何?」
彩香に睨まれて彼は俯いた。

「まったく。どうしてもっと自信が持てないの? そんなんじゃ、たとえ実力があったとしても他人から見下されてしまうわよ」
「そうなんですけど……」
彩香は苛立っていたが、井倉は満足していた。彼女は自分の事を評価してくれた。そして、音楽祭での成功を応援してくれている。それだけでうれしかったのだ。

――そういう時でも自信満々に見せなきゃ駄目なんです

ハンスもそんな事を言っていた。井倉の頭に師の言葉が過ぎった。
(確かにそうだ。自信に満ちた態度でいれば、そのオーラでカバーする事だって出来る。でも、僕に出来るだろうか。そんな自信なんてちっとも持てないのに……)
井倉が不安そうな顔をした。
「しっかりなさい! 本番までは、もう2週間もないんだから……」
「そうですね。頑張ります」
そう答えた井倉だったが、態度からは自信のなさが透けて見えていた。彩香は部屋の中を見回すと、テーブルの上にあった小さな花瓶を持って彼に渡した。
「この花、捨てといて」
そこにはまだしおれてもいないコスモスが差してあった。が、彼女はもう見向きもしない。井倉はそれを持つと 黙って階段を降りて行った。


そして、9月の始め、彩香は再びテレビの収録に出掛けた。今回が3度目。これで挑戦者を押さえて優勝すれば、グランドチャンピオン大会への切符を手に入れる事が出来る。そして、その大会で優勝すればスポンサーが付き、コンサートを開く権利がもらえる。従来のコンクールとは違う視点からスター性を審査するものだった。それは興味深い企画で、彩香にとっても一つのチャンスだった。が、今、彼女の頭の中を支配しているのは違う事だった。
一つは明後日に迫った音楽祭の事。そして、もう一つは今日これから行われる収録で響と顔を合わせなければならないという事だった。

(本当に……。いくら何でも非常識だわ)
響の言葉を思い返す度、腹が立った。しかし、スタジオに入ると、先に来ていた響が何事もなかったかのように挨拶して来た。
「おはようっす! へえ。今日はお嬢様、エメラルドのペンダントか。俺の指輪のデザインと似てんじゃん。それってステファニーラシャの店?」
「ええ」
彩香があっさり答える。
「何だ。こないだの事、まだ気にしてんの? 心配しなくても、俺、明後日にはロンドンだからさ」

「コンサートツアーは10月じゃないの?」
彩香が驚いて訊く。
「そうなんだけど、ほら、俺って世界の人気者じゃん。みんなが早く来てくれってうるさいんだよ。まあ、番組の収録も今回で一段落するし、月末の特番で俺の出る番は先に録っちゃってるんだ。日本にいてもあまり刺激的な事ってなさそうだし、それなら外ではめ外そうかなって……」
「そう」
彩香は複雑な気分だった。が、響が笑うと周囲がぱっと輝いて明るい気持ちになった。彼には確かに強いオーラがあるのだ。

スタジオでは順当にリハーサルを終え、いよいよ本番が始まった。速弾き対決の課題は、ショパンの「小犬のワルツ」とバッハのクラヴィーア練習曲集より第1番。
「果たして、今回もノーミスが出てしまうのか? あまりにも精密な機械のような演奏をするサイボーグ彩香に挑戦するのは、薬島音大卒業し、今は女優として活躍中の三上園子。彼女は音大卒業時に優秀者として卒業コンサートにも出演している実力者。しかも、二人は同じ大学の先輩後輩という関係です。これは注目ですね」
司会者の煽りは前回以上だ。
「彩香さん。今の心境は如何ですか?」
チャンピオン席の彩香に訊いた。
「今と言われましても、わたしは目の前にあるピアノに向かい、曲を弾くだけです。たとえ相手が誰であろうと関係ありません。わたしは自分のペースで弾くだけですから……」
「さすが! サイボーグお嬢様! 顔色一つ変えずに迎え撃つ覚悟は出来ている。冷静に各個撃破を目指すのみであると言っております!」
その言葉にスタジオは一斉に活気づく。

(何よ。サイボーグって……。それじゃあ、まるでわたしが血の通っていない鋼鉄のロボットみたいじゃない)
彩香は不服に思ったが、それを表情には出さなかった。そして、いつものように張り詰めた空気に身を投じ、心に偲ばせたメトロノームに合わせて曲を弾いた。

そして、今回も例に漏れずノーミスを叩き出したのだ。記録の発表が掲示されるとスタジオ内は興奮の坩堝と化した。挑戦者のミスもトータルで2回だけと高水準の対決だったが、彩香の完璧過ぎる演奏に皆が圧倒され、絶賛の嵐が起こった。薬玉が割れ、花吹雪が舞う中で派手な音楽と共にトロフィーが授与された。そして、その驚異的な技術に、コメントした誰もが恐れを抱いた。が、響だけは皆と違ったコメントを出した。
「確かに指の運びは完璧だった。でも、それって漢字の書き順のテストでは満点取れたってだけなので、彼女には表現の方でも満点取れるように頑張って欲しいですね。音楽ってのは一度ぶっ壊してからが本番なんで……。楽しくない音の羅列は音楽じゃないっすからね」
「響君、相変わらずの辛口コメントありがとうございます。彩香さんからはどうですか?」
司会者が訊いた。
「そうですね。皆さんのコメントは真摯に受け止めて更なる努力に励みたいと思います。少なくとも、サイボーグでない演奏を目指す事に致します」
そうして、番組は熱気に包まれたまま終了した。

賑やかに人々が行き交うエントランスで、彩香は響の姿を探していた。しかし、彼はどこにもいなかった。
「あ、彩香さん。お疲れ様。次のスペシャル特番でも頼みますよ」
スタッフの一人が声を掛けて来た。番組ですっかり顔が売れた彼女は次の特番でも起用され、今度はコメンテーターとして出演する事になっていた。
「あの、生方さんは?」
「ああ、響君なら、もう帰ったよ。この後、ラジオの打ち合わせがあるとかで……。彼も忙しいみたいだね」
「そうですか」
もう会う事はないかもしれないが、それならば、「気をつけて」の一言くらい言っておけばよかったと思ったのだ。が、帰ってしまったのなら仕方がない。彼女もそのままエントランスを出て行った。


一方、井倉の方も最後の仕上げに掛かっていた。
(これが本番だと思って弾こう)
地下室のピアノの前で、彼は本番のイメージを作り、そこが舞台なのだと想像した。袖から出て、舞台中央に立ち、客席に向かって礼をし、さっとピアノの席に座る。それから、呼吸を整え、目を閉じる。そして、持ち上げた手を鍵盤に置く。あとはすべて降る音に身を任せるだけ……。心地よいリズムが身体の中を駆け巡り、心の中は空白のまま、夢のような時が過ぎる。

曲が終った。陶酔していた井倉は自分がどこにいるのかわからなくなり、戸惑いながら目を開けた。そこはハンスの家の地下室だった。不意に背後で拍手が聞こえた。見ると金髪の彼がそこにいて手を叩いていた。
「いいですね。まるでCDかと思いましたよ」
そう言うと、ハンスはうれしそうに笑った。
「そ、そんな……」
お世辞だと思った。が、そこへ黒木教授もやって来て言った。
「いや、本当に感心した。これなら本番でも上手く行くかもしれん」
信じられない言葉だった。
(あの黒木先生が、僕の演奏を褒めてくれた)
それだけで涙が滲んだ。

「あれ? どうしたですか? 涙なんか浮かべて……」
ハンスが訊いた。
「いえ、ただうれしくて……。先生達にそんなふうに言ってもらえて……。すごくうれしくて……」
「だが、本番はこれからだぞ。1回くらい上手く行ったからといって油断するんじゃない」
黒木が注意する。口調は厳しかったが表情は柔らかい。
「そうですよ。本番には怖い魔物がいるかもしれません。まだ、あと1日あるのだし、調整して行きましょう」
ハンスも慎重にと言った。
「はい」
井倉が、そう返事をした時、美樹が入って来て言った。

「ねえ、本番の時、これを締めたらどうかしら?」
美樹が手にしたボウタイを見て、ハンスが訊いた。
「これはいいですね。ちょっと古典的な柄だけど、素敵です。美樹ちゃん、どこで見つけたですか?」
「今日、たまたま仕事の帰りに通り掛かったお店で見かけたの。洒落たピアノモチーフだったからいいんじゃないかなって……」
井倉もそれを手に取って言った。
「ほんと。素敵ですよ。でも、いいんですか? 僕が使わせてもらっても……」
「もちろんよ。わたしからのプレゼント。だから、本番、頑張ってね」
「ありがとうございます」
井倉はうれしそうだった。

「美樹ちゃん、僕のは?」
ハンスが訊いた。
「もちろん用意してあるよ。ハンスのは青いやつ。でも、10月の本番の時渡そうと思ってたんだけど……」
美樹が苦笑しながら言う。
「今すぐ欲しい!」
ハンスが言った。
「あら、それってジェラシー? 弟子に嫉妬するようじゃまだまだね」
美樹が笑う。

「そんなんじゃないですよ。でも、美樹ちゃんに結んでもらえたら僕、とびっきりの演奏しちゃう」
甘えるようにハンスが絡む。
「ほんとに?」
「そうですよ。もうとろけるような甘い曲をね、いっぱい弾いてあげちゃうの」
両腕を回してキスするハンスをそっと放して美樹が言う。
「それはうれしいけど、今は井倉君の本番が上手く行くように応援してあげましょうね」
彼の頭をそっと撫でて微笑する。そんな二人を見ていると、井倉は微笑ましいと思いながらも少し寂しさも感じた。
(彩香ちゃんと僕は、こんな風にはなれないだろうな。でも、仕方が無いか。僕も誰かに甘えるのなんて苦手だし、彩香ちゃんだって美樹さんのように甘やかしてはくれないだろうから……)

彼がそんな事を考えていると、黒木が真剣な表情で声を掛けた。
「井倉、この音楽祭には関係者もたくさん招待されている。これで上手く行けば、デビューもぐんと近くなる。頑張れよ」
「はい」
軽やかな声が出た。自分でも気持ちが良いくらいに……。
(そうだ。今みたいな気持ちで弾けばいいんだ。そうか。これが自信を持つって事なのか。自信が持てれば、心を落ち着けて弾ける。上手く弾こうとするんじゃなくて、心を穏やかに保つ事が大切なんだ)
師匠達に信頼してもらえたという事がうれしくて、井倉は幸せな気分に包まれていた。

「彩香さんも3連覇を果たした事だし、次は井倉君の番だね。君の本番が終ったら、二人のお祝いしよう!」
ハンスが言う。
「そうだな。井倉、どうせなら美味い酒を飲ませてくれよ」
黒木が発破を掛ける。それは本番では絶対にしくじるなという暗黙のプレッシャーだったが、今の井倉はそれを余裕で聞き流す事が出来た。


そして、本番の日を迎え、彼らは会場である渚ホールへ向かった。
午前中にリハーサル兼それぞれの練習時間が用意されていた。井倉に当てられた時間は11時半から15分。
本番は1時30分開場で、井倉の出番は3時45分だったので、かなり余裕がある。
「あ、井倉先輩!」
通路で大学の後輩である栗田に会った。
「栗田さん、久し振りだね。あれ? バッチ付けてるって事は会場のお手伝い?」
「はい。今日は広美、ここでお手伝いです。さっき、特別ゲストさんにパンフレットを届けて来たところ」
「特別ゲスト?」
「はい。とっても素敵なおじ様で感激しちゃった! すごいんですよ。そこの302のお部屋でリハしてるんですけど……」

「誰?」
「あれ? 先輩知らなかったんですか? サプライズで超大物のピアニストさんが来てるんですよ。あ、いけない。開場になるまで言っちゃいけないんだった」
栗田が慌てて口を押さえる。
「大丈夫だよ。僕は出演する方なんだし……」
井倉に言われて彼女はほっとして言った。
「そうですよね。じゃあ、先輩はもうパンフもらいました?」
「いや、それはまだだけど……」
「なんだ。じゃあ、これ、あげますね。一般用のだけど……」
彼女は抱えていた束から1枚差し出す。
「ありがとう」
「それじゃ、広美はまだ仕事があるのでお先に失礼します。先輩、頑張ってね」
そう言うと栗田は元気に走って行った。

「特別ゲストって誰だろう?」
井倉は渡されたパンフレットを見て愕然とした。そこにアントニー・ルークの名を見つけたからだ。
しかも彼が弾く曲は井倉と同じリストの「ため息」。
「そんな馬鹿な……!」
しかも衝撃はそれだけではなかった。よりによって演奏順が井倉のすぐ前。つまり同じ曲が2曲続いているのだ。
「あり得ない。こんな事……」
普通ならば、大物ゲストを目玉として後に配置するのが常道だ。

「これは、きっと何かの間違いだ。いや、常識から言ってあり得ない。これは悪い夢なんだ。きっと緊張から来る悪い夢……。だったら、早く目覚めなきゃ……」
それでも、パンフレットを持つ手が震えた。
「めざめなきゃ……」
井倉は何度もそう呟いた。唇が渇いて上手く発声出来なかった。が、それでもそう呟かずにはいられなかった。それから、長い通路をふらふらと歩いて、栗田が言っていた302と書かれた部屋の前に立った。そこから漏れて来たピアノの音はあまりにも洗練され、美しい精霊が躍るがごとく繊細なオーラに満ちていた。
(凄い……!)
それはCDで聴いた音とはかけ離れていた。それが巨匠の声なき声の音。しなやかな絹のように滑らかで、叙情に満ちたその音は一度聴いたら忘れられない。その響きは愛と悲しみに満ちていた。

(天才なんだ。この人も……。ハンス先生の音を聴いた時みたいに心が疼く。いや、まるで鋭い棘に貫かれたみたいに……痛い)
それでも、そこから離れられなかった。井倉は夢中になってそれを聴いた。僅か数分の快楽を1音も逃さないように……。しかし、その曲が終った時、強力な脱力感が全身を襲った。
(超えられない……)
直感的にそう思った。
(無理だよ、とても……。こんなすごい人と同じ舞台に立つなんて……)
そう思った途端、身体が小刻みに震えだした。
「弾けない……」
(この人の後で……。あの曲を弾くなんて……)
井倉は目眩を感じ、壁に手を突いて辛うじて体重を支えた。

「井倉、何をしているんだ? リハーサル、そろそろおまえの番だぞ」
そこから少し離れたドアが開いて黒木が呼んだ。
「黒木先生!」
井倉は思わず叫んでいた。
「何だ? どうした、大声なんか出して……」
「これを見てください!」
泣きそうな顔で声を絞り出す。
「これは……!」
差し出されたパンフレットを見て黒木も絶句した。
「何かの間違いでは? それともプリントミスか?」
黒木が顔を上げて問う。

「いいえ。間違いではありません。僕、見ました。このドアの向こうであの曲を弾いているアントニー・ルークを……」
悲痛に訴える井倉を宥めるように黒木は軽く肩を撫でると窓を覗いた。しかし、部屋には誰もいなかった。黒木はノックした。始めは軽く。だんだん強く。そして、激しく。返事はなかった。そのドアには鍵が締められていた。
「こんな事はあり得ない。これがもし、本当だとしたら、今からでも曲を変更してもらえないか交渉しよう。ルーク氏くらいの腕ならば、常に数曲はスタンバイしている筈だ」
教授は急いで近くの部屋に入ると、内線を使って運営委員である理事長に問いただした。しかし、黒木はそのルークに会う事は出来なかった。黒木が電話に向かって怒鳴り付ける。そんな様子を井倉は廊下に立って震えながら見ていた。

「井倉君、どうしたですか?」
ハンスも来て訊いた。
「それが……」
丁度電話を切って出て来た黒木が事情を説明した。その間、井倉はぼんやりと宙を見ていた。
「あの理事長の差し金ですかね。まったくどこまで質の悪い奴なんだ」
ハンスは憤慨した。が、今更どうにもならなかった。
「アントニー・ルークとは、僕知り合いです。子どもの頃だけど、多分、彼も僕の事覚えていると思います。僕が何とかしましょうか?」
ハンスが言った。が、黒木は首を横に振る。
「いや、それが理事長が面会を拒んでいて……。ルーク氏と会わせてくれないんです」
「何て奴だ!」
吐き捨てるようにハンスも言った。

「この場に至ってこんな汚い真似をして来るなんて……。同じ曲を重ねて来るだけでもあり得ないというのに、こんなプログラムの組み方、ルーク氏にとっても不愉快でしょうに……。しかも、会場には大勢の関係者が来ているんです。このままでは、井倉の将来が……」
「きっと彼ら、完全に潰しに掛かってるんです」
ハンスが言うと、黒木がぎりぎりと歯を噛み締めた。
「情けない。同じ音楽をやる者として許し難い所業だ!」
教授は拳を握り締めて憤怒した。
「ちょっと待って! 黒木さん、井倉君は?」
ハンスに言われ、黒木は慌てて周囲を見た。
「妙だな。さっきまですぐそこにいたのに……」
二人は頷き合うと言った。
「逃げ出したんだ!」